学科トピックス

2014年08月19日

親鸞とその時代

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政治上の動きや、社会のシステムだけではなく、そこで生きていた人々の心のなかにも関心をもって、歴史を探ろうというのが、本学科の学びで重視している点です。

しかし、心の歴史を学ぶとはどういうことでしょう?

以下に載せるのは、歴史文化学科開設を記念して開かれた歴史文化講演会における、平雅行先生の講演の一部を抜粋したものです。

中世を生きる人々の苦しみや悩みに直面した親鸞の苦しみ、そしてその苦しみの末に絞りだされた親鸞の教え、心の歴史を読み解く面白さを体感してみてください。

「京都学園大学人間文化学会 歴史文化講演会 親鸞とその時代」

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浄土真宗の開祖親鸞は、その教えが載る『歎異抄(たんにしょう)』第四条にて、ボランティアのような自力の慈悲の力は小さいので、念仏を唱えることで成仏し、仏の大きな力をもって人々を救いなさいと教えている。私はこの親鸞の考えに接した時、人々を助けようとする心をたやすく否定してよいのか、と違和感を覚えた。しかし、もし、自力の慈悲の限界を、親鸞が悩みぬいた末に感じたのだとすれば、賛成はできないにしても理解できるのではないか、そして、その経験が親鸞にはあったのではないか、と考えた。

親鸞は一二三一年(寛喜三年)四月四日に風邪をひく。高熱にうなされる中「まはさてあらん」、つまり、「今はさてあらん、これからはこうしよう」、と口にする。妻である恵信尼が事情を聞くと、親鸞は、「夢の中で念仏こそが仏教の教えの究極であるとしているにも関わらず、無量寿経を転読しており、目をつぶると経の文字がきららかに映っていた。そのうち、佐貫(さぬき)の経験(親鸞は佐貫の地で人びとを救うためにお経を千回読経しようと志すが四、五日して不要であると思い断念し、常陸に移住した経験があった)を思い出し、自力の信の残存に気付いたために「まはさてあらん」と言った。」と彼女に語った。親鸞はこの頃には確固たる念仏信心があったことは確かである。ならば、自力の信の残存を再認識させた佐貫の体験にこそ親鸞の考えの根底があるのだろう。

親鸞が佐貫にいた一二一四年、この年は天候不順の年であり全国で酷い飢饉に見舞われた。先の人びとを救うためというのは、雨乞いの祈祷のことであったのである。つまり、この時、親鸞は自身の信心を曲げてまで、飢えに苦しむ民衆の依頼に応じて読経しようと立ち上がったのである。幕府の激しい弾圧にすら揺らぐことのなかった親鸞の信心が、民衆の苦しみのためには揺らいだのだ。だからこそ、その読経を途中で止めるということは、親鸞にとって非常に辛い選択であったに違いない。この経験は、親鸞の信心を、一六年後の寛喜三年に再び揺らす。

寛喜三年。実はこの時、親鸞だけが苦しんでいたのではない。大飢饉によって多くの人間が苦しんでいた。中世で最大規模の飢饉であった。寛喜二年七月下旬には全国で雪が降り、八月、九月には大風雨が起こる。同年一一月、暖かくなり桜が咲く。同年一二月、セミが鳴き、下旬になれば、また雪が降った。こんな天候の中、食料が十分なはずはなく寛喜三年には疫病がはやり、道路を塞ぐほどの餓死者が大勢でた。そんな中、ついに幕府は米を放出し、百姓の人身売買を許可するまでに陥った。身分の変更を認めない中世では異例の事態である。そして、せめて子供は生きて欲しいと、断腸の思いで親は子供を売る、または質に入れるのだ。親鸞の目の前には、またしても民衆の苦しみが広がっていた。自力の慈悲などでは、もはや何もできない。唯一できるのは「まはさてあらん」と寄り添いながら共に念仏を唱えることしかないのだ。確かに念仏によって飢饉は解決されない。しかし、何者によっても飢饉は解決されない状況がひろがっていたのだ。そして、幕府にすら救えぬどうすることもできない現状に、親鸞が悩みに悩みぬきながら、極限の状態で絞り出しのが『歎異抄』第四条なのである。

親鸞の魅力はこの揺らぎの姿にある。人々と共に悩み苦しみあえぐ、その心の揺れこそが、まことの慈悲の姿であるのではないか。

(2014年3月29日 歴史文化講演会第一回 於コンソーシアム京都)

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平 雅行 教授
専門は日本中世史。京都大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。京都橘女子大学、関西大学を経て、大阪大学教授(2015年4月より本学教授就任予定)。主な著書に『日本中世の社会と仏教』『親鸞とその時代』、共著は『日本歴史大事典』や高校教科書『日本史B』等。

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