京都先端科学大学 人文学部 校名変更記念連続講演会 みえない力の文化史 -心理と歴史文化篇-

2018年11月21日トピックス

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「京都で人文学の先端を科学する」を合い言葉として教育・研究に取り組む本学人文学部では、来年4月の校名変更を記念して連続講演会を開催。11月4日(日)に京都太秦キャンパス みらいホールで始まった「みえない力の文化史 心理と歴史文化篇」は、開会の挨拶で来年4月の本学50周年に新たに掲げる校名「京都先端科学大学」について、経済・人文学・健康学とさらに2020年より開設予定の工学部も一緒になって進化させたいと展望も語られました。

連続講演会「みえない力の文化史」は、世界の成り立ちのなかで人や社会を動かす“みえない力”について、歴史学・国文学・民俗学・心理学のさまざまな分野からアプローチする試みです。この日、開催された「心理と歴史文化篇」は3部構成で、前半は本学人文学部より歴史文化学科教授の山本淳子先生と心理学科教授の山愛美先生による講演が行われました。後半は、国際日本文化研究センター所長で本学特別招聘客員教授の小松和彦先生による講演と、この日の講師3名によるトークセッションが行われました。

第一部「源氏物語と怨霊 -心の闇にひそむ“鬼”-」山本 淳子

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平安時代の史料には「死者の怨霊」が記され、人々が最も恐れ真剣に対策を練っていた一方で、『源氏物語』という創作世界には、史実に例のない「生霊」が描かれていることに注目。紫式部には、怨霊とはそれに襲われた人の心の「疑心暗鬼」が作り上げるものだと詠んだ和歌があり、ならば人の心の深い闇が、死者ではなく生者を怨霊と疑ってしまうこともある、紫式部はそう考えて「生霊」のストーリーを創作したと語りました。人に心がある限り全てのものが怨霊になり得るという、作家の深い人間洞察がテーマの講演でした。

第二部「夢のイメージは時空を超えて -深層心理学の視点から-」山 愛美

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一昨年に公開された映画『君の名は。』を取り上げ、まず、その現代的意味について触れました。この物語を、出逢うはずのない男女高校生の体が突然「入れ替わる」ところから始まり、現実世界で本当に二人が出逢うまでのプロセスとして読み、段階的に捉えました。そして、心がグラデーションのように層構造を成しているとする深層心理学の立場に基づき、意識と無意識の境界を読み解きました。人気映画のストーリーを織りまぜながらの楽しいお話の最後には、映画の登場人物の言葉に触れ、形あるものはいつか消えてしまう。形は消えてしまってもイメージは、私たちの記憶の中に残り続け、伝えられていくのでは、と目に見えないイメージの力について語られました。

第三部「百鬼夜行を描く -妖怪画の起源を探る-」小松 和彦

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「百鬼夜行絵巻」の諸本や、「餓鬼草子」「融通念仏縁起」といった絵巻物を比較しながら、日本人がいかに鬼をイメージし、図像化してきたかを読み解いていかれました。小松先生は仏教が伝わった影響で神や仏が描かれるようになったことが、それと倒立した存在である多様な姿の妖怪たちが描かれる契機となり、百鬼夜行に見られるような多様な鬼となったと示唆されるとともに、それがやがて現在の私たちが想像する典型的な鬼の姿形に近い鬼とその他の化け物に分化していくことも示されました。妖怪画の起源を探ることによって、キャラクター化された鬼だけではないさまざまな「見えないもの」がいかに図像化されてきたかをひも解く興味深いお話でした。長い歴史の中で私たちの生活文化に浸透してきた妖怪や物の怪。これらの日本の妖怪文化は、学問研究の新領域として注目されるとともに、現代文化創造の文化資源としても期待されています。

トークセッション

講演会の最後は、この日の講師3名が揃って登場。「みえない力」というテーマのもと、研究分野の異なる先生方がそれぞれの視点で語られた講演内容について質疑や意見交換が行われました。

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以下、人文学部生の参加記、ご一読ください。

学生参加記

第一部 学生参加記

第一部源氏物語と怨霊 ―心の闇にひそむ「鬼」― 参加記

人文学部歴史文化学科 3年生 山田 実李

「怨霊」という言葉を耳にした時、現代に生きる私たちにとって、それは何かファンタジーじみた、非科学的なものに聞こえてしまいがちだ。しかし、その怨霊という存在を本当に信じ、国家が対策を練っていた時代が確かにあった。それは平安時代―人々が最も怨霊を恐れた時代である。「死霊」「御霊」「守護霊」と史実に見える怨霊は多彩であるが、そんななか源氏物語に登場するのは、史実に例のない「生霊」。紫式部はなぜ、どのような思いからこの怨霊をつくり出したのだろうか。
私は、この講演を通し、そこに人間の心の普遍的な一面をみることが出来たように思う。以下に、山本先生のお話を拙筆ながらまとめてみる。

源氏物語の「生霊」について考える前に、まずは史実に現れた怨霊の例からみていきたい。
源氏物語をお好きな方ならば、源融(みなもとのとおる)という人物はご存知だろうか。天皇の子でありながら、母親の身分が低いために臣下へ下った、光源氏のモデルと言われる人物である。彼は、死後地獄に落ちながらも自邸の河原院に執着し、「地縛霊」となって現れた。宇多上皇がちょうど河原院を訪れた際に、宇多上皇の女官に憑依し、その場に居た多くの人がこの事実に遭遇した。けれども、それは宇多上皇への恨みの念からではなく、地獄から現世の縁を訪ねて和みに来ただけなのであった。〔「宇多院の河原院左大臣の為に没後諷誦を修する文」『本朝文粋』巻十四〕

また、政治的敗者で社会に災禍をもたらす「怨霊」も存在した。皇太子争いに敗北した藤原元方(ふじわらのもとかた)、比叡山のトップ争いに敗北した僧賀静(がじょう)。この二人は、怨霊となって三条天皇につきまとい、眼病を患わせた。
この背景の込み入った事情として、まず元方の娘は三条天皇の第一皇子を生んでいた。しかし、結局皇太子になったのは藤原師輔の娘が生んだ第二皇子の方であった(冷泉天皇)。一方の賀静は、同じ藤原師輔がバックアップした人物と比叡山のトップを争って敗北した。そして、三条天皇は師輔の孫娘と冷泉天皇との間に生まれた子であったのだ。〔『小右記』長和四年(1015)五月七日〕

さらに、その藤原師輔は、子孫の繁栄のため他家に祟る「守護霊」として史実に現れている。師輔には実頼という実の兄がいたが、二人は常に競い合っていた。師輔は子孫繁栄を思うあまり、生前から兄の一家を滅亡させようとの願いのもと、60年も陰陽道の術を仕掛け続けていたという。そして、死後もなお実頼の子孫が御産をするときには、必ず赴いてそれを妨害するのだという。〔『小右記』正暦四年閏十月十四日〕

こうしてみると、史実における怨霊の多彩さがよく分かるが、そもそも物怪の正体とは一体どのようにして判明するのだろうか。
まず、発病すると僧と憑坐(よりまし)が「物怪調伏」を行う。憑坐とは、物怪が憑りつきやすい体質をした十代の少女だ。この憑坐を側に置けば、物怪は病者から離れ、憑坐へ憑依する。そして憑坐がトランス状態に陥った時、物怪が「私は誰それだ」と名乗ることがあり、正体が判明する。
実際、物怪の正体というのはほとんどが不明である。一部は動物、一部は怨霊。そして、その怨霊とは全て「死霊」だ。先に挙げた「地縛霊」「御霊」「守護霊」も全て「死霊」であり、それらは皆死ぬことによってパワーを得ている。

では、ここからは源氏物語の「生霊」について考えていこう。
源氏物語の「生霊」とは、「葵」巻の六条御息所のことである。光源氏の長年の愛人・六条御息所は、彼の本妻である葵上に屈辱を感じさせられる。有名な、葵祭の車争いの場面だ。その後、光源氏の子を身ごもった葵上に物怪の症状が現れる。

【源氏物語「葵」:現代語訳】
“左大臣邸の女君(=葵上)には、物怪がひどく起こってたいそうお苦しみである。六条御息所の御生霊か、その亡くなった父大臣の御死霊か、などと噂する者がいると御息所は耳にした。あれこれ考えると、不運な身の上を嘆く以外に他人を悪しかれと願う心などないが、思い詰めると体を抜け出す生霊なるものについては、もしかしたらと思い当たる節もある。”

葵上を苦しめる物怪を、六条御息所の生霊だと噂する人々。それを聞き「もしかしたら、そうかもしれない」と噂を受け入れている御息所。現実世界に「生霊」というものは存在しないが、源氏物語の中ではさも当たり前のように書かれている。このように「生霊」を一般的なこととしているのは、紫式部の創作であると山本先生は述べられた。
また、続く次の場面では、六条御息所がその心中を吐露している。

“何年も、悩まぬことがないほどあれこれ悩んで生きてきたが、ここまで心が砕けることはなかった。だがあの些細な出来事の折、人が自分を見下し無視する様子だった賀茂祭の禊の日からというもの、ただその一件で落ち着きを失った心は、鎮まる時もなくなった。そのせいだろうか、少しまどろんだ夢には、あの姫君とおぼしい人の麗しく住んでいる所に行って、様々にいたぶり、平生とは打って変わって獰猛で荒々しくまっしぐらな気持ちが湧いてきて姫を叩きのけるのが見えることが、度重なった。ああいやだ、古い歌にはあるけれど、私の心は実際に身を捨てて行ってしまったのだろうかと、正常ではない精神状態を自覚する時も度々あるのだった。”

「彼には本妻がいるけれど、私は高い身分で、彼の愛人の中でも筆頭のはず。それなのに、彼からは深く愛されず、そればかりか彼は私に飽きつつある。ああ、なんてこと…」。六条御息所は、普通の精神状態ではなくなってしまう。貴婦人中の貴婦人である御息所が、恐ろしいほど獰猛になる。そして、そうしたことが度重なるようになり、あの「もしかしたら、そうかもしれない」という思いが確信に変わった。「古い歌の言い回しにはあったけれど、本当にあることだったのだわ」と。山本先生は、これを「生霊としての自覚」と述べられた。
「生霊」は、現実世界では「古い歌」のような物のたとえであり、空想世界のものであった。しかし『源氏物語』は、それをリアルとして描いたのだ。

その『源氏物語』を書いたのは、言わずと知れた紫式部である。では、紫式部は「怨霊」「生霊」というものに対し、どのような認識を持っていたのだろうか。
紫式部が残した第三の作品『紫式部集』に、次のような歌がある。

“亡き人にかごとをかけてわづらふも 己が心の鬼にやはあらぬ(四十四番歌)“
“人は怨霊に襲われたことを、死んだ人に理由をかこつけて苦しんでいる。だがそれも実は、自分の心に潜む邪悪な何かのせいではないか。“

「鬼」とは本来「隠」であって、隠れ潜む強力なものを指した。漢語「隠」の音読み「オン」が「おに」へと変化し「鬼」になったのである。つまり「心の鬼」とは、ある特定の人への疑心暗鬼、罪悪感、怨恨などを意味する。
この上記の歌から紫式部の認識を読み解く試みは、幾度となく行われてきた。その結果、「怨霊は生者の気のせいで、実際にはいない」という「怨霊」の存在の否定であり、近代的で科学的な解釈だと理解をされてきた。

しかし、山本先生はそうではないと述べられた。「心のある限り人は怨霊を作り出す、それは実際に人を痛めつける」のだ。「怨霊」を否定しているのではなく、むしろ「心の鬼」は遍在し、実体を持つと訴えかけているのだと、そのように述べられた。
人が死者を怨霊と疑えば死者が、生者を疑えば生者が怨霊となり得る。そして、生きている自分を疑えば自分も怨霊になり得る。紫式部は、このような思いと認識から、六条御息所という人物を造形したのではないだろうか。

最後に、みえないものを見させる「心」とは、どのようなものだろう。現実には、怨霊は霊媒に憑くため、怨霊自体の姿が現れることはない。しかし『源氏物語』では、世間、光源氏、六条御息所自身の強固な「心の鬼」が生霊を可視化させる。

【源氏物語「葵」:現代語訳】
“葵上の声や雰囲気は、その人らしくなく変わっていらっしゃる。ひどく変だと思いめぐらすと、それはまさにあの御息所の声や雰囲気ではないか。…「そんなことを言っても、誰だか知る者か。はっきり名乗れ」と源氏の君がおっしゃると、まさに御息所のご様子に。光君は驚愕するどころの話ではない。“

まず聴覚で怨霊を認知するも、光源氏はその存在を全否定する。しかし、光源氏の思い込みが怨霊を視覚として捉えさせたのである。

恐るべきは、怨霊というみえない力を幻想によって作り出してしまう人の心である。それは時に人を苦しめ、死に至らせることもある。この「怨霊」を「ストレス」に変えれば、現代にも通用する。「心の鬼」というのも、罪悪感や怨恨から「祟られるかもしれない」というストレスを抱えることに、その発端がある。
そうした「心」という不可解なものを『源氏物語』は直視した。また、だからこそ『源氏物語』は時代を超えて現代まで読み継がれているのだと、山本先生はそのように締めくくられた。

私は、この講演を通し、人間の心とは一体何だろうと考えた。人間の心は様々な感情を持ち、花の美しさや儚さに涙することもあれば、怨霊という恐ろしいものを作り出すこともある。自分のものであるのに、コントロールできなくなることもある、不思議なもの。
しかし、そんなものにも時代を超えた普遍性を確かに見いだすことができた。ファンタジーじみた、非科学的なものだと思っていた「怨霊」は、「ストレス」として現代にも存在し続けていたのだ。また、人間はどんな時代においても心に「鬼」を抱えているのだと感じた。
そして、こんな不可解なものを『源氏物語』は掬い上げて描いたのだと、改めて驚いた。ただ「光源氏が多くの女性と恋をする物語」ではない、もっと深く「人間」というものについても焦点を当てた物語なのだ。もう一度、そのページをめくり、じっくりと読み返してみたくなった。

第二部 学生参加記

第二部 山愛美先生の「夢のイメージは時空を超えて、深層心理学の立場から」を聞いて

人文学部心理学科 4年生 吉良 真琴

現代社会においては、すぐに目に見える結果や効果を重視する傾向があるように思われる。講演は、見えないものは本当に見えないのか、実は見ようとしていないだけなのではないか、という問いかけから始まった。

山先生は、深層心理学の立場から新海誠監督の『君の名は。』を取り上げ、「夢」「記憶」「繋がり得ないものがいかに繋がるか」をテーマとして、その現代的意味を読み解くことを試みられた。物語の冒頭で、飛騨地方糸守の女子高校生三葉と東京の男子高校生瀧が、ある朝突然入れ替わる。二人は夢だと思っていたが、実はそれは現実で、互いの(異性の)体を内からリアルに体験をする。「入れ替わり」は、普通の出逢いを超えた究極の結合である。つまりこの物語は、初めに「入れ替わり」があり、そこから二人が本当に、現実の世界で出逢うまでの逆のプロセスが描かれていると言われた。冒頭の「入れ替わり」から、二人は段階を踏んで、現実の世界で、意識的に、個人として(互いの「名前」を知って)出逢う。

山先生は、深層心理学の視点からこのプロセスを段階的に丁寧に説明され、とても興味深かった。体は三葉で、中身は瀧。これは三葉なのか瀧なのか。反対に体は瀧で、中身は三葉。これは一体誰なのか?そこには「私とは何か」という実存の問題にも迫るテーマがあるのではないかとも述べられた。糸守の町を救うために、三葉の家系では代々夢のイメージが伝承されていたことがわかった。目に見えない「ムスビ」に興味を持った。ゆっくり時間をかけると面白い経験ができるのではないかと思う。

最後に、この物語には「形あるものは、いつか消えてしまう。しかし、形は消えてしまっても、イメージは私たちの記憶の中に残り続けている」というメッセージがあるのではないかと締めくくられた。先生は、アニメ作品を通して、何か大切な人間の心の真実を語られたと感じた。

第三部 学生参加記

第三部 「百鬼夜行を描く―妖怪画の起源を探る―」を拝聴して

人文学部歴史文化学科 3年生 岡 颯馬

「見えない力の文化史」という主題で企画された今回の講演会。「見えない力の文化」とは我々人間が認知することができないにもかかわらず、文化としては存在するもののことを指す。

本講演会の講師であり、妖怪研究の第一人者でもある小松和彦先生は「見えない力の文化」として「妖怪文化」を挙げる。とりわけ日本列島における妖怪文化は多種多様なものであり、それらは口頭伝承・文献だけでなく儀礼や絵などの非言語的ものの中にも現れると述べる。

今回、小松先生が資料として提示した真珠庵本「百鬼夜行絵巻」や日文研本「百鬼ノ図」、京都市立芸術大学本「百鬼夜行絵巻」にも道具・獣・鬼など多様な妖怪たちが鮮やかに描かれている。日本人が、このような神や妖怪など見えないものを描きだす契機となったのが仏教伝来である。仏像や仏具などの図像をもつ仏教の影響を受け、それまで姿形のないものと考えられていた神は貴人・仏の姿に図像化されていく。同時に神の裏返しともいえる妖怪たちも図像化されていく。「餓鬼草子」や「泣不動利益縁起」、「融通念仏縁起」といった絵巻物には、今日、日本人がイメージする赤色の肌で角が生え、金棒を持ち、虎柄の履物を履く「鬼」とは異なる多種多様な「鬼」たちが描かれている。

現代の日本人は、キャラクター化された今日いうところの鬼のみを「鬼」と呼び、それ以外の物の怪を「妖怪」「化け物」と区別している一方、「百鬼夜行絵巻」に描かれるものたちは、現代であれば妖怪・化け物に総括されてしまうような、キャラクター化される以前の多種多様な鬼たちを描いている。「百鬼夜行絵巻」は日本人の最も古い鬼観が映し出されたものであったとみることができる。

ところで、「妖怪」が「学問」として捉えられ始めたのは、明治期にまで遡る。仏教哲学者の井上円了らが妖怪撲滅運動として妖怪をあらゆる諸科学的を用い分析し、その後民俗学者の柳田國男が民間伝承を主な材料として、かつての日本人がもっていた信仰の姿の復元に取り掛かった。

そのような流れの中で、1994年に小松先生は新たな妖怪学の指針として『妖怪学新考』を発表する。その中には、先生の妖怪文化への向き合い方、いうなれば妖怪哲学を象徴する一文が刻み込まれている。以下『妖怪学新考』からの引用である。

“「新しい妖怪学は、人間が想像(創造)した妖怪、つまり文化現象としての妖怪を研究する学問である。妖怪存在は、動物や植物、鉱物のように、人間との関係を考えずにその形や属性を観察できるものではなく、つねに人間との関係のなかで、人間の創造世界のなかで、いきているものである。したがって、妖怪を研究するということは、妖怪を生み出した人間を研究するということにほかならない。要するに、妖怪学は「妖怪文化学」であり、妖怪を通じて人間の理解を深める「人間学」なのである。」“(小松和彦『妖怪学新考』小学館1994年)

上記の一文に象徴されるように小松先生が見つめる先には常に人間がいるのである。

今回の講演会を振り返っても、先生は伝承であれ、絵巻であれ、その実在性を問うのではなく、その向こう側にいる人間がいかに見えないものを図像化していくか、その過程を問うたのである。そして、本講演会の主題であった「見えない力」とは小松先生の言葉を借りれば人間の想像(創造)力であったとも総括できるだろう。

私も小松先生に影響を受け、「見えない力」に挑む学徒の一人であるが、先生の妖怪への向き合い方、すなわち人間研究としての妖怪研究を糧とし、私自身の卒業研究に向き合っていきたく思う。

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