京都先端科学大学

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京都先端科学大学 人文学部 校名変更記念連続講演会「みえない力の文化史」の「歴史文化篇」が開催されました。

更新日:2018年12月25日(火)
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講演会詳細はこちら

2018年12月2日(日)、人文学部と同学部の人間文化学会の主催により、「京都先端科学大学 人文学部 校名変更記念連続講演会」の第二回「歴史文化篇」が開催されました。これは11月4日(日)開催の第一回「心理と歴史文化篇」に続くもので、今回は人文学部歴史文化学科所属の教員による二つの講演が行われました。当日はオープンキャンパスに引き続いての開催で、約百名の来聴者を迎え、質疑応答も交えた充実した講演となりました。

まず、浜田忠章学校法人京都学園副理事長による開会挨拶が行われ、歴史文化学科の「仮説を立て事実を集めて検証する」という学びで培われる能力は企業からも求められていると、いま若者たちが歴史を学ぶことの有効性が語られました。

次に、平雅行特任教授が「中世の人々はどれぐらい神仏を信じていたか?」のタイトルで講演。中世に圧倒的な信仰を集めていた旧仏教について、実は仏教界では実証的・科学的な考え方が育っており、特に医学で発達をみるなど、仏教が文理を総合した一種の知識の宝庫という存在であったこと、また死など人間には決して解決できない事柄で仏教が必要とされた点は現代と同様であることなどが、巨視的な視点で語られました。日本中世仏教史の第一人者である平教授のわかりやすい言葉と熱い語り口で、「中世とは何か」を垣間見せてくれる講演でした。詳しい内容は学生による参加記をどうぞ。
第一部 学生参加記をよむ

続いて、鍛治宏介准教授が「神の詫び状―江戸時代の病への対応―」のタイトルで講演。「疱瘡を流行させてごめんなさい」と神が謝るという不思議な内容の近世文書をめぐって、病除けのお守りを作る豪商、お守りの観光ツール化、おまじない本への掲載、書物を通じた全国的流布などといった一連のできごとが生き生きと語られました。盛り沢山な古文書・刊本等の史料も楽しく、近世の出版文化の活況を感じさせてくれる鍛治准教授の講演の詳細についても、学生による参加記をご覧ください。
第二部 学生参加記をよむ

京都学園大学人文学部は、校名変更後も「京都で人文学の先端を科学する」を合言葉に教育と研究に励んでゆきます。今回の講演でも、その姿勢は来聴者に十分伝わったようです。「また開催してほしい」の声を多く受けながら、本年度の連続講演会は幕を閉じました。

11/4 みえない力の文化史 歴史文化篇レポートはこちら

学生参加記

平雅行先生の「中世の人々はどれくらい神仏を信じていたか?」を聞いて

人文学部歴史文化学科 2回生 河原将弘

現代に生きている人たち、少なくとも私は神様や宗教を絶対的なものとして信じてはいない。しかし、昔の日本ではどうだったのだろう。この講演では、中世社会で神仏がどのように受け止められていたかについて論じられた。

まず中世とはどんな社会だったのか。一般的には武士の時代と考えられているが、実際は公家と武家と寺家が協力をして政権運営をしていた時代であった。また、中世の仏教といえば鎌倉新仏教を思いつくかもしれないが、それらは少数派であり、旧仏教の勢力が圧倒的な影響力を持っていた時代であった。

中世では宗教が暴力として機能していた。呪いや呪詛である。たとえば六字経法では、人形(ひとがた)に敵の名を書き、それを射殺し、斬り殺し、焼き殺し、その灰を水に溶かして飲むことで敵を服むとしたもので、この祈りを貴族などが利用していた。後醍醐天皇は中宮の御産祈祷の名目で幕府を3年にわたって呪詛し、それが露見して呪詛した僧侶3人が流罪になっている。また、呪詛の成功による恩賞や、敵方の呪詛を行った僧侶の処罰などが無数にあり、当時の人が呪いの有効性を信じていたことが窺える。

一方、『東山往来』をみると、五月生まれの子は親に祟るという言い伝えから、隣の女が赤子を捨てようとしている、と貴族が相談している。それに対し清水寺の僧侶は、五月生まれの偉人を列挙し、実例をもとに迷信を否定した。
旧仏教の世界では、いろんなテーマを論じあう論義が盛んであり、時に彼らは貴族たちの前で、寺の栄誉を背負って議論を戦わせた。こういう論争に勝利するには、経典研究が不可欠であり、彼らは論戦のため必死で勉強した。これが文献学的実証の深化をもたらし、優秀な仏教学者を輩出することにつながった。このような実証に重きに置くことで、僧侶たちは素朴な迷信から離れていった。

また、医学史では中世は仏教医学の時代と呼ばれており、僧侶が中世の医学界を牽引していた。そして僧侶は、漢方薬を与え、養生の仕方を教え、懺悔させ、祈祷して治療を行っていた。このように、医療技術と仏教が未分離であり、あらゆる学問が仏教と融合していた。
鎌倉幕府の裁判制度では、証文や証言を重視したが、それで正確な事実認定ができない場合は、結論を神仏にゆだねる神判を採用していた。つまり、中世の裁判制度に神仏の力が構造的に組み込まれていた。
人間の技術発展により社会が高度になるにつれ、神仏の力に限界があると意識されるようになる。つまり中世では、人間の力は弱いが、神仏の力も強くない。そこで、この2つを協働させることで、目的を達成しようとした。つまり、人間的な合理性と神仏への祈りなどの呪術性が、助け合う形で物事を実現させようとした。

そして最後に、『頓医抄』を著した性全という医者に触れ、民衆のために情報を公開し、患者第一主義を掲げた名医がいたことを誇りに思うと述べて、講演を結ばれた。

私は今まで昔の人々の価値観について深く考えたことはなかったので、この講演を聞いて、呪詛の効力を信じることと、事実に基づいて物事を判断しようとすることが、同じ時代に共存するという、現代の私からすると不思議に思う現象が存在したことに素直に驚いた。現代人の「当たり前」と、昔の価値観の違いから、歴史の面白さに触れることができたと思う。

鍛治宏介先生の「神の詫び状―江戸時代の病への対応」を聞いて

人文学部歴史文化学科 3回生 唐沢むつみ

「疱瘡を流行らせてごめんなさい。」
このような詫び状が約70例、北関東を中心に日本各地で発見されている。書かれたのは江戸時代後半、謝罪しているのはなんと疱瘡の神様だ。内容を見ると、差出人である疱瘡神が病を流行らせたことを一人の商人に謝罪している。そしてその商人の名が書いてある御札が門に貼ってある家には、疱瘡神は入らないという。

神々が詫び証文を書くことはそもそもありえないはずである。文書の中に書かれている作成年も長徳3年(997)となっているが、この詫び文書で使われているのは明らかに江戸時代の言葉遣いである。つまりこれは「偽文書」となるのだが、詫び証文の形式を真似て、誰かが神に謝らせたことは事実である。

では誰が何の為にこのようなものを作ったのか。疱瘡神が謝罪している商人、組屋六郎左衛門とは何者なのか。この詫び証文と組屋六郎左衛門の出す御守りは、どのような歴史的背景の下日本各地に広がっていったのか。今回の鍛治宏介先生の講演は、それらの謎を江戸時代の出版文化の発達、知識の広がりから4章立てで追求したものであった。以下、拙筆ながらその内容をまとめてみる。

まずは疱瘡神の謝罪相手である組屋六郎左衛門に注目したい。彼は若狭国小浜(現在の福井県小浜市)に住んでいた実在の人物である。戦国時代には海外貿易を行い、豊臣政権下では朝鮮出兵の際の物資輸送を行うなど、回船業を担う大商人であった。江戸時代に入り回船業から撤退した後も、小浜藩主との特権的関係を保つなど、小浜を代表する町人の一人であったという。

その組屋六郎左衛門と疱瘡神の伝承が、組屋家から何度か発信されていることが分かった。簡単にその内容を紹介したい。
回船業を担っていた時代、北国に出掛けた際船に老人が乗ってきた。その老人を接待すると、去り際に自分は疱瘡神だと告げられる。接待の感謝の代わりに、今後組屋六郎左衛門という名を聞いたら疱瘡にかからないようにするという約束をして、去っていった。

伝承の基本的なストーリーはどの資料も共通しており、時代が下るごとにより詳細なものになっている。このような伝承に基づいて、実際に疱瘡守札が発行されていたこと。組屋家が積極的に宣伝活動を行っていたことより、疱瘡守札のご利益を高めるために疱瘡神の伝承が作られたと推定される。

では組屋家の疱瘡守札は、どのように全国に広がっていったのか。実は戦後直後まで疱瘡罹患時に組屋家より守札をうける風習があったこと、高山彦九郎が小浜へ赴いた際にお土産として組屋家から受けたなどの記録が残っている。それだけではなく、組屋家自身が京都や大阪で開帳を行っている。しかし唯一現存する山口県の守札は、どのようにして手に入れられたのだろうか。こうした守札を宗教者が媒介となって他の地域へ配るという事例は江戸時代に幾つかある。では山口県の例も宗教者が媒介となったのか、または自ら訪ねたのか、お土産なのか。残念ながら関係資料が残っておらず、具体的なことは分からないという。

次に鍛治先生は、人ではなくモノを介した伝播に注目された。江戸時代は書物の時代と言われる程、様々な知識が書物を通じて人々の生活に定着し、常識というものが生まれ発展した時代だ。組屋の疱瘡守札も、江戸時代のそうした出版文化、書物文化の爆発的な広がりによって全国に広がっていったと考えられる。まず寛文13年(1673)、高野山で刊行された修法集に組屋家の疱瘡守札が掲載されている。実は小浜には真言寺院が有力寺院として数多く存在しており、高野山との人的交流が盛んであった。それらのルートを通じて、組屋家の守札が高野山の密教修法をまとめた本に掲載されたと類推されるという。

それらの修法集はやがて集まり、刊本のまじない本となって一般の人々の手に渡っていく。さらに人から借りた刊本のまじない本を書き写すなどして、写本をする者も現れた。そして書き写して終わりではなく、一般庶民、さらには宗教者でさえも実際に出版されたまじない本を利用して守札を作っていたことが資料から分かるという。

興味深い詫び証文をきっかけに、疱瘡守札が人から人、本から本へと、様々な形を介して広がっていった過程が明らかになった。その背景には、当時の医学の力ではどうすることも出来ないものに対し、まじない的な知識に頼るという人々の心。さらに出版文化の発達の力が影響し合っていたと考えられる。このように色々なものを介して知識が広まった時代こそ、書物の時代でもある江戸時代と言えるのではないだろうか。

詫び証文が生み出された過程についての説明は残念ながら時間切れとなってしまったが、社会的背景を見ることで、人々に広まった過程をより深く理解することが出来たと思う。自転車を駆使した調査結果のもと、江戸時代の出版文化をキーワードに、笑いを交えた鍛治先生らしい講演を終えられた。

大学での歴史の勉強は、高校までのそれとは大きく異なる。本当にその通りで、教科書に登場しない一般庶民、光を浴びずにいた個々に注目することで、初めて歴史の全体像を見ることが出来ると日々感じている。

今回の詫び証文はまさにその例で、講演を聞かなければ江戸時代にこんなに面白いものが書かれていたことを知ることは無かっただろう。そしてただ面白いだけではなく、そこから人々の知恵や文化を創り出す力を感じることが出来た。その力は私の想像以上で、普段の講義でも、いい意味で毎回裏切られる。講演を聞いて江戸時代のイメージが変わった人もいるのではないだろうか。

歴史の教科書に載る多くは結果だが、その過程と背景を当時の人々が残した史料から読み解くことで、歴史という枠を超えて心を学ぶことが出来ると思う。この講演会を通じ、見えない力に対する人々の心を垣間見ることが出来た。私も歴史文化を学ぶ一学生として、歴史に埋もれた想いや声にじっくりと耳を傾けていけたらと思う。