京都先端科学大学

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京町家新柳居市民講座「もう1つの「京都」」の第2回目「小学生が学んだ「伏見」の歴史」を開催しました。

更新日:2018年12月28日(金)
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「もう1つの「京都」~観光ガイドや教科書には載っていない「京都」巡り~」と題して、3回にわたって各回違った視点から市民の皆様とともに考える、本学 人文学部の先生方による京町家新柳居市民講座の第2回目が、2018年12月14日(金)、京町家新柳居で開講されました。

第2回目のテーマは、本学 人文学部歴史文化学科 池田恭浩准教授による「小学生が学んだ「伏見」の歴史」です。

私たちが、日頃なにげなく見ている地図ですが、その地図にこそ、文字通り「教科書に載っていない」様々なことが記されているのです。先生がかつて実践された京都教育大学附属桃山小学校での授業をもとに構成された内容はとてもわかりやすく、随所に新鮮な発見があり、知的好奇心が大いに刺激されました。

まず、小学生に行った授業についてのお話です。小学生たちが先生とともに、見て歩いて学んだ模様が、本講座で再現されました。歩いたのは、小学生たちが通う伏見区桃山周辺です。そこで、様々な史跡や石碑、歴史を記した案内看板を一つ一つ丁寧に見ていきました。桓武天皇陵、伏見桃山城運動公園、明治天皇伏見桃山陵、昭憲皇太后伏見桃山東陵などを巡りました。
小学生たちは、それらを子どもらしい素直な気持ちで見つめ、いくつもの素朴な疑問を抱くようになります。たとえば、この地がなぜ「桃山」と呼ばれているか、そもそも城はなぜここに築かれたのか、「丹波橋」は、なぜ丹波とついているのか、その下の川をどうして「濠(ルビほり)川」と言うかなどの根本的な疑問です。
その後小学生たちは、この授業で歩いた場所の白地図作りをしていきました。

本講座では、ここで「地図ってそもそも何ですか?」という問いが参加者の皆さんに投げかけられました。確かに急に考えても即座に答えることができません。そこで地図についての基礎知識を学びました。地図記号の数々、地図記号の定義、またその歴史的な変遷や現在記号が161種もあることなどを知りました。
また、地図と地形図との違いについても説明されました。地形図とは、「地上にある人や自然がつくったものの位置・高さ・形を基準点に基づいて縮尺したもの」で2万5千分の一の地形図が、国の基本図とされており、この地形図に情報を記載するため、地図記号が必要だったということです。

さて、話は小学生たちの授業に戻ります。小学生たちは、実際の地形図を見て、様々な情報を感じ取っていきます。さらには、今の地形図と過去(昭和13(2012)年)の地形図を見比べていきました。過去の地形図を見て、今のように宅地は少なく田畑が目立つことに小学生たちはすぐに気づきます。
また、先生からは、小学生たちに、昭和13年の「学校のある地域の様子を想像してノートに書く」という宿題を出しました。

講座では、実際の昭和13年頃の、伏見区内の様々な様子が、写真によって映し出されました。観月橋、墨染のインクライン(発電所)、三栖の閘門、そして路面電車や子どもたちの遊ぶ様子などが、ひと目でわかります。伏見が、水運の要衝であったこともよくわかります。

時を遡ってさらに古い、江戸時代末、幕末の頃の地図が掲げられました。これを見ると小学生が抱いていた数々の疑問に対する回答が即座にわかってきます。
豊臣秀吉がこの地になぜ城を築いたのか、それは安土城と大阪城の真ん中にあり水運の要衝でもあったことが理由にあげられます。そのために秀吉は、巨大な巨椋池を整備していったのです。桃山と呼ばれるのは、安土桃山時代という呼称と関わっていることもわかってきました。現在の丹波橋のある場所には、「桑山丹波守」の武家屋敷があったことも記されています。なぜ「丹波」の名が付されていたのかもこれで明らかになってきました。
また、「濠川」は、桃山城の外堀であったことも判明しました。

京都、伏見は、まぎれもない城下町であったことがよくわかりました。

今回の講座では、現在私たちが暮らしている土地の「歴史」や「風土」、そもそもの成り立ちを地図や史跡散策によって深く理解することの大切さを学ぶことができました。

講座の最後には、伏見城跡から出土した「金箔瓦」の現物が披露されました。参加者はそれを手に取って、しみじみと歴史と歳月の重みを実感していました。