【人文学部ニュース】講演会「源氏物語とその時代」盛会に終了しました

2019年07月10日トピックス

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2019年6月30日、京都先端科学大学みらいホールにて、京都先端科学大学人文学部校名変更記念講演会が、人文学部および人間文化学会の主催、京都市・京都新聞の後援で開催されました。

講演会は、総合テーマが「源氏物語とその時代」。当日は本降りの雨にも関わらず、来聴者の数は510名にのぼり、会場は満員御礼となりました。

今回の講師である山本淳子本学人文学部教授と朧谷寿同志社女子大学名誉教授は、宇治市源氏物語ミュージアムで4月より公開中のオリジナルアニメ「ネコが光源氏に恋をした」で監修者を務めました。講演に先立っては、そのアニメのさわりが上映され、会場から歓声があがりました。

第一部「『源氏物語』のたくらみ」山本 淳子

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講演の第一部は、山本淳子人文学部教授による「『源氏物語』のたくらみ」でした。紫式部が藤原道長に抜擢され、その娘の中宮彰子に仕え始めた頃、後宮と政界を重く覆っていた事情と、その打開策としての『源氏物語』について語りました。詳しい内容は「参加記」をご覧ください。

第二部「藤原道長の栄華とその舞台」朧谷寿同志社女子大学名誉教授

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講演の第二部は、朧谷寿同志社女子大学名誉教授による「藤原道長の栄華とその舞台」でした。平安時代、最も栄華を極めた貴族である藤原道長について、強運の持ち主、高貴な血統の妻との結婚など、道長ならではの特徴を指摘しながら、その人生を解き明かしました。詳しい内容は「参加記」をご覧ください。

トークセッション

第三部では両講師によるトークセッションが行われました。藤原道長が栄華の極みで詠んだ和歌「この世をば 我がよとぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の新解釈について、また恋人同士だったとも言われる藤原道長と紫式部との関係についてなど、会場からの質疑応答も交え、和やかな語り合いで幕を閉じました。

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以下、人文学部生の参加記、ご一読ください。

学生参加記

第一部 学生参加記

第一部 講演「『源氏物語』のたくらみ」を聞いて

京都先端科学大学人文学部歴史文化学科二年生 能登古都音

『源氏物語』とは紫式部がかいた日本最古の長編恋愛小説である。主人公である光源氏が母親の面影を追いかけて様々な女性と恋愛をし、成長していくというストーリーである。登場人物が非常に多い作品であるが、紫式部は一人ひとり丁寧に描写をしている。そのため藤原道長がその文才を評価し、彼女を彰子の女房として雇い入れたのは間違いないだろう。しかし道長が紫式部を雇った理由はそれだけではない。紫式部の源氏物語は当時の政治の困難な事情を解決するという意味でも魅力的なものであった。源氏物語が現代を生きる私たちにとっても身近になるくらい広まった背景にはこのような政治的事情、そして紫式部の強い意志があった。このことを今回の講演で詳しく学び、考え、まとめていく。

道長は自分の娘である彰子を当時の天皇一条天皇の后とすることで、自分は摂政の立場で権力を得ようと考えていた。そのためには、彰子と一条天皇の夫婦仲が良好で、二人の間に後継ぎとなる皇子が生まれる必要がある。しかし、その道長の思惑の生涯となる存在がいた。一条天皇の最愛の后、中宮定子である。一条天皇は明るくて優しくて教養のある定子を、彼女が亡くなった後も溺愛していた。定子と一条天皇の間には皇子を含む三人の子供が生まれている。しかし、彰子と一条天皇の間には長らく子供が一人も生まれなかった。道長は彰子と一条天皇の間に子供が生まれるように、一条天皇の心を彰子に向かせる必要があった。紫式部を彰子の女房として採用し、『源氏物語』を書かせたのは、知的な女性を好む一条天皇の心を奪うための道長のたくらみであった。そのような政治的背景のもと、当初は短編の連作であった『源氏物語』が長編小説となっていった。

また、彰子本人も一条天皇に寄り添いたいと願っていた。一条天皇に歩み寄るため一条天皇の好きな漢詩を紫式部に習ったというエピソードもある。紫式部は源氏物語以外でも一条天皇と彰子の心をつなぐための役割を果たしたといえる。

道長の政治的な欲、彰子の一条天皇との夫婦仲をよくしたいという願いをかなえるため紫式部は彰子のサロンに呼ばれ源氏物語を書き続けることとなったのだ。

また、清少納言の『枕草子』も紫式部の源氏物語のたくらみを考える上で欠かせない。紫式部は次のように、清少納言の書いたものを「嘘」と断言し、批判している。

(清少納言のように)風流を気取り切った人は、ぞっとするようなひどい時にも「ああ」と感動し「素敵」とときめく種を見逃しませんが、それは自然にありえない嘘っぱちになってしまうでしょう。(『紫式部日記』清少納言批判:現代語訳)

紫式部は姉、親友、夫など多くの大切な人を失った自分の人生経験から、現実を直視するべきという信念を持つようになる。それがどんなに認めたくないつらい現実であっても、その事実と人の心を描くという強いこだわりを持った人物である。『源氏物語』の第一帖「桐壺」巻に登場する桐壺帝と桐壺更衣は一条天皇と中宮定子をモデルにしていると、山本先生は以前から述べておられる。清少納言が枕草子で一切語らなかった一条天皇と中宮定子の悲劇を、紫式部は物語の世界で表現したのだ。

それは現実と向き合わない清少納言に対する皮肉のようにも感じられる。清少納言は、定子の幸福であった姿だけを枕草子に残している。それはどんなに辛い状況でも思い出の中は明るく優しい定子だけを残しておきたいという願いからであるが、清少納言のその考えは紫式部には現実逃避と感じられたのかもしれない。一般的には、枕草子は随筆であるので事実が描かれているもの、源氏物語は物語であるのでフィクションが描かれているものと考えられる。しかし、事実や人の心をリアルに物語に表現した源氏物語は、事実の幸せなことだけを切り取った枕草子よりも現実に近いのではないだろうか

それは次のような、定子と桐壺更衣の辞世の句の比較からも感じられる。

定子 知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くも 急ぎたつかな(『栄華物語』巻七) (大意)この世と別れ、知る人もいない死の世界へ。心細いけれど、急いでもう旅立たなくてはなりません。

桐壺更衣 限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしくは 命なりけり(『源氏物語』桐壷) (大意)もうおしまい。お別れして行かなくてはなりません。でもその死出の道の悲しいこと。行きたいのは、生きたいのはこんな道ではありません。私は命を生きたいのに。

定子の句は死の恐怖や一条天皇との別れに対する悲しみについては一切触れていないが、桐壺更衣は生きたいというこの世への未練を詠んでいる。紫式部は定子が辞世の句を詠んだ時の素直な心情を想像して詠んだのではないだろうか。

『源氏物語』における紫式部のたくらみは、源氏物語を後世に伝えられる古典にすることであると山本先生は述べられた。枕草子では読み取れない一条天皇と定子の本当の出来事や気持ちを物語として表現し、長年をかけて道長の支援のもと、世の中に事実を伝えようとしたのではないだろうか。

源氏物語と枕草子は同じ平安時代の作品ではあるが、全く別の作品であると私は考えていた。しかし、実は二つの作品には切っても切れない繋がりがあったのだということを今回の講演会で学び、驚いた。また、紫式部が日記で清少納言を批判したことは有名である。私は、紫式部は清少納言の才能をどこかで認めていて、批判はその裏返しの妬みのような感情であると考えていた。しかし、二人の考え方は真逆であり、紫式部の強い現実主義は清少納言の感覚主義を受け入れることができなかったのだと学んだ。紫式部と清少納言また、源氏物語と枕草子の関係は非常に奥深いと感じた。

私は特に平安の文学作品に関心があり、詳しく学びたいと考えている。今回の講義で自分は紫式部が源氏物語で伝えようとしたことをまだまだ読み取れていなかったことが分かった。源氏物語もその他の文学作品も作者の思いや、伝えたいことが必ずあるはずである。それを考えながら、これから更に勉強をしていきたい。

第二部 学生参加記

第二部 「藤原道長の栄華とその舞台」の講演を聞いて

京都先端科学大学人文学部 歴史文化学科二年生 安丸瑶

藤原道長といえば、誰もが知っている平安時代の大権力者だ。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」という句はあまりにも有名だ。この歌が独り歩きしたためか、おごり高ぶった権力者である、というイメージを持っている人も少なくないだろう。朧谷先生の講演は、道長の実際の人となりや、この句を読むに至るまでの経緯が、専門的かつ分かりやすく語られたものだった。

道長といえば、権力争いで勝ち上った、強く、さかしい男と思っている人も多いだろう。しかし彼の最初の権力争いは、ほとんど「運」であった。後継ぎとされていた上の兄たちが疫病で次々と倒れてしまったのだ。病弱であったにもかかわらず、最後まで生き残った道長を、朧谷先生は「強運」と評された。

道長は苛烈だが寛大でもあった、という。敵には容赦しないが、味方になれば温情をかけ、手厚く扱う。そのため、あまり恨まれることがなかったそうだ。

度々話題にのぼったのが、道長の誤字・脱字だ。なんと藤原道長には自筆の日記が残っており、そこに誤字・脱字が多数見えるという。

道長が権力の頂点に上り詰めることができたのは、もちろん運や人柄だけではない。賜姓皇族を妻に迎え、妻の尊貴性で自分の家格をあげた。また、一門から天皇を輩出しつづけられるよう、孫(後一条・後朱雀)と娘(威子・嬉子)を近親結婚させている。これは当時においても、考えられないようなことだった。

道長は、後一条天皇のもとへ娘の威子を入内させ、娘の立后の日に、かの有名な句を詠んだ。ところがその翌日、道長は面会に来た貴族に、「目が見えない。お前の顔もよく見えない」と弱音を吐いている。

この世を自分のものと思うだなんて、なんて驕った人だ、と私は思っていた。しかし今回の講演で道長の人間らしい姿をお聞きして、自分がどれほど誤解していたのを痛感した。歴史を正しく知ることの重要さを改めて感じ、平安の文化へのさらなる関心が深まったように思う。

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