【人文学部ニュース】講演会「歴史の京都 ことばの京都」盛会に終了しました

2019年10月11日トピックス

event-top_A.jpg

「京都で人文学の先端を科学する」を合い言葉として教育・研究に取り組む本学人文学部は、校名変更を記念して連続講演会を開催。

その第3回目として、9月28日(土)に、京都太秦キャンパスみらいホールにて「歴史の京都 ことばの京都」を開催し、250名近い方が来聴されました。

第一部「祇園にやって来た少女たち-江戸時代の芸者と遊女の境界線-」鍛治宏介

kaji.jpg

講演の第一部は、鍛治宏介人文学部准教授による「祇園にやって来た少女たち-江戸時代の芸者と遊女の境界線-」。江戸時代の古文書をもとに、祇園に働きにやってきた少女たちの人生を、鮮やかに浮き彫りにされました。9つの女の子が2両ほどのお金で祇園の置屋に身売りされたこと、その後も実の親が置屋に金の無心をしたことなどが明らかにされ、聴衆からはその苛酷さに、ため息が洩れました。

第一部「祇園にやって来た少女たち-江戸時代の芸者と遊女の境界線-」鍛治宏介

maruta.jpg

第二部は、丸田博之人文学部教授による「歴史のなかの京ことば」。京ことばが漢語やポルトガル語など多様な国際文化の影響をうけながら、どのように成立し、どう変容してきたかを話されました。京ことばの国際性が意外で、特にこころに残りました。「ほかす」「ようけ」などの語源紹介や、「子ども」「お子たち」の使用法には、「へーっ」と歓声があがりました。

いずれの講演もたいへん好評で、「聞いていて胸があつくなった」「先端研究の成果に触れて、改めて学ぶことの喜びを知った」といった感想が多く寄せられました。

20191010_kyoto01.jpg
撮影者(人文学部歴史文化学科3年 佐々木智帆)

詳しい内容は、下記の参加記を御覧ください。

次回の第4回講演会は、「発達障害の深い理解に向けて」11月3日(日)です。今回と同様、ふるってご参加ください。

(人文学部 特任教授 平 雅行)

学生参加記

第一部 学生参加記

第一部 鍛治先生の「祇園にやって来た少女たち-江戸時代の芸者と遊女の境界線-」を聞いて

人文学部歴史文化学科 3年生 冨岡尊羅

古文書を読み解くと、歴史をじかに感じることができる。今回の講演で鍛治先生は、祇園や遊女に関する古文書から読みとった歴史について話された。

江戸幕府は、公認の遊郭として江戸の吉原、京都の島原、大阪の新町を定めた。ただし、京都の島原は郊外すぎたため、祇園や二条・七条・北野などの寺社門前で遊所が繁栄した。その後、祇園新地・二条新地・七条新地・北野上七軒にも遊女商売が公認されたが、時期によって非公認、公認が繰り返された。

祇園などの歓楽街では、茶立女による性的接待が常態化し、町触では茶立女のことを「傾城茶立女」と表現していた。寛保三年(1743)の町触には、(1)僧侶が茶立女を殺害した事件があったこと、(2)茶屋と旅籠屋には茶立女が1軒に1人しか認められていないにも関わらず、娘や妹の名義で多数の女を雇って接待させていた実態が書かれている。

では、少女たちはどのようにして祇園にやって来たのか。講演では9歳の「しな」という少女が紹介された。証文によると、(1)困窮により、しなが養子にだされたこと、(2)「一生不通」といって、養子にだしたあとは親子の縁を切り、絶対に会わず、死んだことすら知らせる必要がないこと、(3)これまでの養育費として祇園町の置屋から親に2両が支払われたこと、が書かれている。これは実質上の人身売買である。しかし、その縁を頼って親が、数年後にも置屋に借金を頼んでいる証文が残されており、「一生不通」とはならなかったことも明らかだ。

祇園に来てから後のことも、古文書から読みとることができる。当時、芸を売りにする「芸者」と、色を売る「遊女」ははっきり区別されていた。しかし、「はつ」という少女の芸者奉公文書には、「芸の道が上達しないようなら、芸者ではなく遊女として使ってください」と書かれており、芸者と遊女の境界は実際はあいまいで、彼女たちの身分が不安定だったことがうかがえる。また、京都の置屋から地方の遊廓に派遣される者がいたり、病死する者がいたりと、残された古文書から、少女たちのきびしい人生の一断面をうかがい知ることができる。

この講演を聞いて、史料を読み解くことで、多様な側面から歴史を知ることができることを改めて実感した。私たちはともすれば、有名な人物や事件に関心が向きがちだが、無名の人たちの人生や出来事を知ることで、歴史をよりリアルに感じることができる。古文書から歴史を読み解くことが、大切なことがよくわかった。

私は、鍛治先生が顧問の「くずし字を読む会」という自主ゼミに入っており、毎週古文書を読んでいる。「くずし字を読む会」は、昨年『祇園細見芸者名鑑 全盛糸音色』という祇園の芸者一覧を翻刻した。どの置屋に芸者が何人いて、舞が得意なのは誰で、唄が上手いのは誰なのかなど、事細かに知ることができたし、それを読み切った達成感も感じることができた。今も新しい史料をみんなで読んでいて、新しい発見があって面白い。これが史料を読む楽しさだ。これからも、史料をじっくり読み解いて、自分の目で歴史を見てゆきたい。

第二部 学生参加記

第二部 丸田先生の「歴史の京都 ことばの京都」を聞いて

人文学部 歴史文化学科4年生 田中康祐

京都には「ほっこり」や「まったり」「はんなり」に代表される「京ことば」と呼ばれるものがある。これらは明治30年頃、主に京都の町家の女性が使用していた言葉、ならびに花街言葉を指している。

今回の丸田教授の講演は、こうした京ことばに加えて、国語学の立場から、歴史のなかの京ことばについて考えていく。

舞妓さんを褒める京ことばには「はんなり」。一方、芸妓さんを褒める時には「こうと」という京ことば用いる。「はんなり」は和語であり、京ことばの柔らかいイメージと一致するのに対して、この「こうと=公道」とは漢語、つまり中国から伝わったもので少し堅い印象がある。

実はこの和語と漢語のコラボレーションこそ「京ことば」、つまり日本語の真髄なのである。

では、この京ことば、日本語はどのように確立されていったのであろうか。それは平安時代にまでさかのぼる。

平安時代は400年近く続き、大きく3つの期間に分けることができる。まずは桓武天皇に代表される創世期。当時、日本での漢字音は「呉音」と新しく移入された「漢音」が並立して使用されていた。しかし唐を意識した桓武天皇は長安で使用されている言葉を基礎とした漢音を正音と規定した。また、この時代に初めて編まれた勅撰集である『凌雲集』をはじめ『文華秀麗集』『経国集』も全て漢詩文集であり、漢語が隆盛の時代と言えよう。

続く第二期では初めての勅撰和歌集である『古今和歌集』が成立し、『土佐日記』や『源氏物語』など和語中心の文学が興隆。ここに漢語と和語の融合がなされ、京都語、つまり日本語の確立がなされたのである。その後の平清盛の時代には、日宋貿易により、新たな漢字音である唐宋音が移入された。

時代が下り、室町時代には日明貿易が始まったことにより、例えば「脈」=「ミャク」のような開拗音が日本語の音韻として確立され、さらに「カン」と「クヮン」のような直音と合拗音の峻別も京都語の特徴となった。

こうして、京ことばは平安京建都と共に生まれ、その後の政治変動と軌を一にしながら様々な変容を遂げてきたのである。

講演の最後には「ほかす」「ようけ」「せいだい」「たんと」といった主要な京ことばの語源が漢語やポルトガル語であることが説明された。

私自身、今回の講演を聞き、これまで和風のイメージの強かった京ことばが、実は多岐にわたる国際性を含蓄したものであることを知り得たことは、大きな収穫であった。

前の記事へ

次の記事へ

一覧へ戻る

このページの先頭へ